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こどもの卒園が悲しくて辛い

雑記

春は心がざわつく季節

毎年桜を撮影するのが楽しみではある

もうあと7回登園したら、次男が卒園する。年が明けてから、その事実がめちゃくちゃ寂しくて、切ない気持ちがより込み上げている。

思えば昨年の秋のはじめに夏の園服と園帽に別れを告げた時からもう寂しかった。

だからいつもは自転車で送るのに最近は歩いて送迎している。少しでも長く園服に身を包む息子と手を繋ぐ時間を感じたいからかもしれない。

私は基本ぼっちママなので、園のママ友と会えなくなるとかそういう理由ではないのは確かだ。なんなら、ぼっちママの観点で言えば卒園は心から歓迎している。はずなのに…。

振り返ってみれば10代の頃からものごとの終わり際に対して特別心が揺さぶられてきたように思う。

夏の終わりがいつもとても寂しかったし、綺麗な夕焼けが夕闇に飲まれていく様も悲しくて切なかった。さほど仲良くなかったクラスメイトが転校すると聞いた時さえも、なぜか寂しかった。

これらの気持ちと似た領域で息子の卒園がとても悲しい。

いろんな事に《最後の》という言葉をつけていちいち悲しい。

このモヤモヤとした哀しさ切なさの根源はどこにあるのか、なぜこんなに辛いのか知りたかった。知った上で、卒園を迎えてさみしいけれど喜ばしいことなのだと、心の底から息子を祝福したかった。(書いているうちに気づけたことだ。)

変化することへの寂しさと恐れ

思い当たることが一つある。

それは『変化への恐れ』である。

私は、『〇〇が終わる』そして新たに『〇〇が始まる』ことで、続いてきた平穏な日常が侵されることを恐れているのではないか…?

それが切なさや悲しさにつながっているのかもしれない。

新居に引っ越すときだって、私はとにかく憂鬱だった。

確かに4人で暮らす1LDKはどう考えても狭かったし、階下に高校時代クラスメイトだった男子が住んでいるのも気まずかったけれど。

新しい生活への楽しみよりも不安の方が勝っていたからだろう。

新しい環境に対する不安はいつも私を怯えさせる。

春は私を最も不安にさせる季節だ。

不安の先にあるもの

卒園の話に戻ってみる。

クラスで1番小さな息子。

毎日、折り紙を大量に折ってきて、カバンに乱雑に入れてくる息子。

ある日一筆書きの星が描けるようになったと誇らしげに描いて見せてくれたこと。

家では甘えん坊なのに、個人懇談でわんぱくな男の子と言われてびっくりしたこと。

長男のお下がりの制服のズボンが、お尻のところが破れて直したこと。

ふくふく大福のようなほっぺが、少しずつしゅっとした輪郭になってきたこと。

赤ちゃんの頃からまだ繋がってるようなふっくらとした手のひら。 

数えきれないたくさんの小さな日常。

こういう覚えきれないような小さな日常が、砂を両手で掬った時のように

指の隙間からこぼれ落ちていくように忘れていくことも悲しい。

新しく小学校に上がって、うまくやっていけるのかな。

大きなランドセル背負って、歩いて登校できるのかな。

勝手に困難な未来ばかり描いてごめん。勝手に怖がってごめん。

私が思うよりもずっとたくましい。それも知ってる。

だからきっと大丈夫。お兄ちゃんもいることだしね。

卒園まであとすこし。

きみを目に焼きつけようとおもう。

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